虎とベンチプレス

https://www.worldwildlife.org/photos/sumatran-tiger

 この物語はフィクションである.真に受けないようにされたい.

 あなたは今から数万年前,ある大陸で生きていた若者だ.数十名の部族の一員だ.あなたには弟がいた.

 ある夏の日の午後,あなたは弟と一緒に狩りに出かけた.あなたの担当は居留地の西だ.他に北,東,南へも手分けして他の男たちが狩りに出かけている.普段はこうして少人数の複数チームで小中型の動物を狩っている.大型の動物を狩ることはめったになく,年に一回あるかないかだ.その際は何日もかけて罠を仕掛け,少数の突撃班と,残り大多数の伏兵班に分かれる.もちろん構成員は全ての男だ.

 突撃班に選ばれるのは大変な名誉だった.巨大な動物はその体重だけで十分に殺傷能力が高い.罠のある方へ追い立てるのが役目だが,間違って自分たちの方向へ突進してきたら文字通り命にかかわる.実際,過去の狩りでは突撃班の半数が死亡したこともある.命を代償として賭ける彼らには高い名誉と報酬が与えられるのだった.

 彼らは戦士と呼ばれ,食料の配分,武器の材料,そして女の優先権が与えられた.実際,優秀な戦士の子もまた優秀な戦士となることが多く,強い男が多くの女に子を産ませるのは部族の繁栄にとって当然だと考えられていた.

 あなたは槍が得意だった.弟は弓矢の才に長けていた.小動物を狩ってその日の成果と課題を弟と話しながら居留地に戻る途中のことだった.

 あなたはふと,背筋にぞくりとした感触を覚えた.立ち止まって周囲を見渡す.その様子に気づいた弟も足を止め,こちらの様子を伺い,事態を悟った.近くに何かがいる.

 弟と背中合わせになり,槍を短めに構え直す.今いる場所は居留地までまだしばらくかかる小道だ.周囲にあるのは腰の丈まである草ばかり.いつの間にか,周囲で聞こえていた鳥や虫の音が聞こえなくなっていた.風の音すらしない.周囲の無音が,かえって圧迫感を持って迫ってくる.

 ちくしょう,イヌを連れてくるんだった.そうすればここまで接近される前にイヌが吠えて知らせてくれたのに.北と東へ行った連中が連れて行ってしまったんだ.

 どんな物音も聞き逃すまいと,必死に耳に注意を集中する.眼はあたりを見回すが,どこにもそれらしき姿は見えない.脇の下は汗でじっとりと湿り,胸の鼓動が早まる.口の中が乾いて苦い.呼吸が早くなる.槍を握る手も汗で湿っていた.背後では弟が弓を構えているようだが,こういう時に弓矢はあまり役に立たないことは彼自身がよく知っている.

 やばい,と言おうとしたその刹那,視界の端で何かが動いた.

 ざっという音がしたのと,自分の背丈よりも高く跳躍したその姿を見たのは同時だった.

 あっという間もなかった.槍の先をその獣に向けるのが精一杯だった.そこから先は何もかもが遅く動いて見えた.槍の先が獣の口に当たったのは幸運でしかなかった.槍が折れ,弾けて飛ぶ.反動で後ろに押され,転倒した.もし転倒しなかったらその巨大な牙と顎で頭を噛み砕かれていただろう.弟がどうなったのかさえ,分からない.

 その獣は必殺の第一撃をかわされたことにいささかも驚いていなかった.黄色と黒の縞模様,恐ろしく大きな頭,人の指ほどもある牙.間合いはすぐに詰められ,あなたは仰向けのままその前脚に組み敷かれてしまった.獣は冷酷にあなたを見下ろしている.ガフっという声とともに,獣の熱い息があなたの顔に吹きかけられる.あなたは両腕を押さえられ,急所の喉ががら空きだ.このままではあと数秒で喉を噛みちぎられて死ぬ.かつてこの獣に襲われた仲間のことが頭をよぎった.喉を噛み切られた仲間は,ごぼごぼと喉から血の泡を吹き,両手は虚しく空を掻いていたが,すぐに動かなくなった.

 ああ,俺は死ぬのか.半分,諦めに似た覚悟のようなものが生まれかけていた.しかし次の瞬間,何かがあなたの中で爆発した.足のつま先から脳天まですべての感覚が繋がり,背筋を反らせ,肩の骨ががっちり引き締まる.両手で獣の前脚をつかみ,渾身の力を込めて押した.ぐい,と獣の前脚が動いた!

 獣の体格はあなたの 3 倍以上はある.だが,行ける!更に前脚を押す.おや,と獣の顔が傾いたように見えた.予想外の獲物の抵抗に戸惑った様子だ.だがしかし,この後どうすればいいのか?この体勢はあと僅かしか持たない.あなたの両腕と獣の前脚が拮抗する.顔には汗が浮かび,胸と腕の焼けつく痛みがあと数秒しか力を出せないと悲鳴を上げている.

 その時,獣の前脚の力が急激に弱り,獣は後ろを振り向いた.後で知ったことだが,弟が獣に矢を射掛けていたのだった.あなたはその隙を見逃さなかった.

 両膝を胸に引き寄せ,獣の下顎を狙って蹴り出した.不意打ちを食らった獣はよろよろとあなたの上から躯体をずらす.あなたは転がるようにして飛び起き,地面に落ちていた石を掴み,獣の目に石を突き立てた!

 形勢は逆転した.獣はものすごい咆哮を上げ,激しく頭を振った.突然視界の半分を失った獣は戦意を喪失して走り去った.

 しばし放心状態のまま,あなたと弟は地面に座り込んでいた.やがて呼吸が落ち着き,周囲を見渡す余裕が出てきた.弟は取り乱して半泣きになっており,大丈夫か,大丈夫かとばかり言っている.体を見てみると胸部に爪の跡が数条ついていて,流血していた.だが,生きている.助かったのだ!

 不意に笑いがこみ上げてきた.死の縁から生還した男の,腹の底から出てきた笑いだった.弟もつられて泣きながら笑っていた.虎に襲われて生き残ったなんて話はめったにあるものではない.生き残ったこと自体が奇跡だ,あんたは英雄だよと弟が言った.矢を射尽くした後,落ちていた槍の刃で獣の首筋を刺したとも言った.弟の助けがなかったら,あなたは間違いなく獣に食われていた.弟に心から礼を言った.

 いつの間にか夕闇が迫っていた.二人の影は彼らの前に長く伸びており,赤く焼けた草原はひときわ美しかった.群れに戻ったら皆が心配し,そして獣と戦って生き残ったことに驚き,あなたは男たちから尊敬と賞賛を得ることになるだろう.胸の傷はその勲章だ.今度の狩りでは突撃班に選ばれるかもしれない.そして女たちはあなたの子を産みたいと願うだろう.居留地に戻る道すがら,あなたと弟は小突き合いながらげらげら笑っていた・・・

 我々はベンチプレスでしばしばバーベルに潰される経験をする.原因は色々あるだろうが,この物語で危機の際に自分の中で爆発した力とは何か,想像してみたい.

 それは野性的で荒々しい生存本能とも言えるものではないだろうか.死んでたまるか,生きてやるという根源的な本能だ.我々はバーベルに潰されるとき,これに似た経験をする.セーフティーバーや他のトレーニー,トレーナーに助けてもらいながらも,あの時自分は死んでいたかもしれないと頭では想像できなくても,肉体はきちんとそれを受け止めているはずだ.極度に亢進した心拍数,大量に出る汗,早い呼吸がそれだ.そして脳は代謝,内分泌という方法で体をより強く作り変えようとする.

 早い話が,ベンチプレスの時は虎に両腕を押さえ込まれていると想像したら良いわけ.目の前に虎の牙と顎が迫っていたら,そりゃ死ぬ気で押し返そうとするだろう.バーベルは虎の前脚なんだな.

3 Replies to “虎とベンチプレス”

  1. ピンバック: 焚き火 – Hymn
  2. ピンバック: 葬儀 – Hymn

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