全世界の石油確認埋蔵量の推移をグラフ化する

 これまで日本の石油輸入元の推移世界の石油生産量の推移を見てきた.石油は今後どれくらい採掘できるのか.ピークオイルという言葉は石油の供給には限界があるという意味で使われ始めたが,現時点では石油の需要のほうが先にピークアウトしそうであるという意味で使われ始めている.

 石油の可採年数は40年前からずっとあと40年と言われ続けてきた.可採年数とは確認埋蔵量を年間生産量で除して求める.年間生産量は確かに増加傾向を示しているが,シェールオイルの発見,新たな油田の発見により,それを上回るペースで確認埋蔵量は増加傾向を示しており,結果として可採年数は長期化する傾向にある.

世界

 シェール革命により世界の石油市場は一変した.かつてはOPEC加盟国vs非加盟国という捉え方は,アメリカ,ロシア,サウジアラビアというビッグスリーという新しい枠組みに取って代わられようとしている.

全世界の石油の確認埋蔵量推移
全世界の石油の確認埋蔵量推移

北米

 アメリカの石油生産量はテキサス州が第1位,アラスカ州が第2位,ノースダコタ州が第3位である.

 カナダでは最近,技術の進歩によりアルバータ州を中心としてオイルサンドからの原油の生産量が急速に伸びている.2002年カナダの確認埋蔵量が急増しているのは,非在来型のオイルサンドを在来型石油と対等のものとして参入したことによる.これによりカナダの確認埋蔵量は49億バレルから1800億バレルに増加し,世界第2位となった.

 メキシコ湾のアメリカ側では沖合で大規模な石油生産が行われているにも関わらず,メキシコ側では開発が進んでいない.2013年にニエト大統領のもとで始まった改革は2018年AMLO大統領就任で頓挫した.原因は様々だが,このままではメキシコの石油産業は衰退の一途をたどると考えられている.

北米の石油の確認埋蔵量推移
北米の石油の確認埋蔵量推移

中南米

 ブラジルの石油生産量は2000年以降2倍以上に増えた.これは沖合の海底の厚い岩塩層の下に広大な油田(プレソルト)が見つかり,その開発が進んだためである.2016年のジルマ・ルセフ大統領の弾劾後,ブラジル政府は方針を大転換し,2017年から外国企業がプレソルトの事業に参加できるようにした.その結果投資や技術が呼び込まれ,ブラジルの石油生産は伸び続けている.

 ベネズエラは世界最大の石油確認埋蔵量を有しており,サウジアラビアをも上回る.にも関わらず,ベネズエラの石油生産量は急減している.1990年代には日量330万バレルもの産油量だったのが,2019年末には日量60万バレルまで低下している.これはチャベス,マドゥロ両政権のずさんな経済運営が原因である.独裁政治,経済破綻,莫大な負債,経済連合の政治化,恒常的な物不足,汚職の蔓延,公金の横流しなどの結果,インフレが年率100万%に達し,国民は貧困化した.

 2010年のベネズエラの確認埋蔵量の増加は,オリノコベルトに多く存在する重質油を在来型石油として参入したことによる.

中南米の石油の確認埋蔵量推移
中南米の石油の確認埋蔵量推移

ヨーロッパ

ヨーロッパの石油の確認埋蔵量推移
ヨーロッパの石油の確認埋蔵量推移

CIS

 ロシアのエネルギー資源の豊かさは圧倒的である.ロシアは世界の三大産油国の一つであり,アメリカに次いで世界第2位の天然ガス生産国である.石油と天然ガスの輸出により得られる収入が国家の財政基盤になっている.歳入の40-50%,GDPの推定30%を占めるとされている.

 1991年ソ連の解体に伴い,巨大な石油産業も分割された.カスピ海西岸のソ連最初の産油地はアゼルバイジャンの領内にあり,カスピ海東岸の油田はカザフスタンのものとなった.西シベリアの巨大な石油産業はばらばらになり,無秩序状態に陥った.「激動の90年代」にはロシアの石油産業が草刈り場となり,新しい石油会社が台頭し始めた.

 2000年にウラジミール・プーチンがエリツィンから大統領の後継者に指名された.プーチンの元,ロシア政府はロスネフチ,ガスプロムなどエネルギー産業を政府の支配下に置いた.現在のロシアには民間の石油会社はルクオイルなど僅かしか残っていない.ゴルバチョフやエリツィンが石油価格の暴落に悩まされたのとは対照的に,プーチンが大統領に就任した2000年以降原油価格は回復し,BRICs時代を通じて上がり続けた.ソ連の崩壊で半減していた生産量も増加し始め,ロシアの原油輸出額は2000年の360億ドルが12年で2840億ドルと8倍にも伸びた.天然ガスの輸出も同じ時期に増加し,ロシアは経済の弱国から強国に変貌した.その結果対外債務の返済,国民給与と生活水準の向上,年金の増額,ルーブルの安定化基金の蓄え,国防費の増強など大国としての復活のため資金を投じた.ロシア経済の発展の背景にあるのは中国の旺盛な需要である.

 ロシアの北極海の大陸棚はほとんど探査されていないが,そこには膨大な石油・天然ガス資源が眠ると考えられている.米国地質調査所によれば「北極海の膨大な大陸棚には,世界最大の未探査の油田が残されている可能性がある」.

 中央アジアはソ連崩壊後独立を果たしたが,ロシアは中央アジアでの特権的な地位を固守しようとしていた.西側はそれらの独立国は独自に主権と経済を発展させる権利があると考えた.中央アジア諸国の中には独立を維持するために石油と天然ガスが欠かせない国もあった.中でもアゼルバイジャンとカザフスタンがそうであり,パイプライン建設を巡ってロシアと英米が競い合った結果,アゼルバイジャンから地中海のジェイハン港に至るパイプラインと,カザフスタンから黒海に至るパイプラインが建設された.両者とも産油量は増加しているが,カザフスタンの産油量のほうが大きく,両者の産油量は北海での英国とノルウェーの産油量を超える.カザフスタンにはカシャガン油田とテンギス油田がある.その後中央アジアから中国へ伸びるパイプラインも建設された.

CISの石油の確認埋蔵量推移
CISの石油の確認埋蔵量推移

中東

 中東で石油が最初に発見されたのは1908年のことである.第一次世界大戦で石油の重要性が証明された.石油は戦艦の燃料としてだけではなく,軍用車両,航空機の燃料としても使われたからである.当時オスマン・トルコの支配地域は中東のほぼ全域,北アフリカ,欧州南東部に及んでいたが,帝国の衰退は第一次世界大戦以前より始まっていた.当時,英国は石油の大半をアメリカからの輸入に頼っており,英国としてはできる限り多くの石油資源を完全な支配下に置く必要があった.英国はペルシャについでメソポタミアのめぼしい油田を押さえた.サイクスピコ協定から始まり,ヴェルサイユ条約で完了した第一次世界大戦後の処理により,現在の中東の原型が出来上がった.

イラク

 英国政府はオスマン・トルコ時代の東部3州を統合して一国にし,委任統治領にしたかった.当時メソポタミアと呼ばれた地域は後にイラクとなった.しかしそれらの地域にはクルド人,スンニ派,シーア派が含まれ,民族的アイデンティティを共有していなかった.1921年英国は国家統一のためファイサル王子を国王に即位させることでその難題を解決しようとした.1927年イラク北東部で石油が見つかった.1932年イラクは独立した.

 1973年の戦争で原油価格が高騰し,イラクには大量の石油収入がもたらされた.サダム・フセインはその資金で大規模な工業化,軍の近代化を成し遂げた.1980年9月22日,イラクはイランを空爆し,イラン・イラク戦争が始まった.戦争は膠着状態に陥り,長期化した.イラン軍はイスラム革命防衛隊が支えた.イラクは化学兵器を使用した.1988年,イランは国連停戦案を受諾し敗戦した.サウジアラビアはイラクを支援した.イランではこの頃ヒズボラが設立され,サウジアラビアの国内外でテロ活動を行った.

イラン

 中東最大の産油国サウジアラビアと,イランとの争いの起源は7世紀,ムハンマドの死後の後継者争いに起因する.スンニ派はムハンマドの義父アブー・バクルを支持し,シーア派は従兄弟で娘婿のアリーを支持する.イランはイラク,バーレーンと並んでシーア派が多数を占める国家である.

 1960年代,イランを統治していたパフラヴィー二世は近代化を進め,経済成長を図った.1973年の第4次中東戦争により原油価格が高騰し,石油収入が急増してイランの経済成長を促進した.しかし同時にイランには極度のインフレ,貧民街の拡大,浪費や非生産的な支出,汚職が横行した.その結果社会秩序が大きく崩れ,政治に対する不満が広がった.

 イランには宗教指導者ホメイニ師がいた.ホメイニ師が亡命先からイスラム革命を呼びかけ,イラン国内はストライキや大規模なデモで混乱に陥った.その結果1979年政権が崩壊し,パフラヴィー二世が国外に逃亡すると二週間後にホメイニ師が帰国し,自ら革命の最高指導者であると宣言した.イラン革命である.イランは神権体制を憲法で規定し,宗教学者の絶対的権威を定めた.また憲法には革命はイラン国内で終結するのではなく,単一の世界的共同体の建設を目指すとされており,他国に革命を広めなくてはならないとしている.これが中東の地政学的な不安定性の原因の一つである.

 ホメイニ師の死後,後継者のハメネイ師に対する国民の不満は強く,1997年イラン大統領選挙では穏健派・改革派のハタミが勝った.ハタミは社会の自由化,イスラム教の厳格な支配の緩和,法の支配の促進,経済改革を目指した.外交ではイランの孤立化からの脱却を目指し,米国やサウジアラビアとの接近を図った.しかしイランがレバノンに侵攻したことでサウジアラビアとの蜜月時代は終わり,2003年にサダム・フセイン政権が倒れたことで両者の対立は決定的になった.

 2002年,イランの核開発が明らかとなり,対話路線に支障が出ると判断したハタミは開発中止を決めた.これが国内の強硬派の反発を招いた.2005年,ハタミの後継者の大統領選挙でアフマディネジャドが当選した.アフマディネジャドは革命防衛隊の元軍人であり,イランを革命路線に戻して地域の大国にすることを目標とし,米国との妥協は一切否定した.また核兵器と弾道ミサイル開発を再開した.サウジアラビアやイスラエルはイランが中東の覇権を握ろうと画策していると考え,アブドラ国王は米国に行動を起こすよう急き立てた.2011年から2012年にかけてイランに対する金融と石油の制裁が発動され,イランは大打撃を受けた.イランの原油輸出が減少した分を米国のシェールオイルの増産が補い,原油の世界市場は余剰へと向かっていたためである.

 2013年ロウハニが大統領に就任して局面が変わった.経済制裁を解除するために米国オバマ政権と秘密交渉を始め,その後の公開の交渉を経て2015年8月,いわゆる核合意がまとまった.10年間イランの核燃料の濃縮と核開発計画が制限されることと引き換えに,金融と石油制裁が解除されることになった.合意は2016年1月実行された.

 しかし米国のドナルド・トランプ大統領は2018年5月,核合意からの離脱を表明した.11月に米国は単独でイランに対する経済制裁を発動した.

 中東の紛争の多くは,イランとサウジアラビアの大きな対立の中に組み込まれている.イランは革命を世界に輸出すると公言しており,サウジアラビアを始め中東諸国にはイランは地域の覇権を握ろうとしているようにみえる.

中東の石油の確認埋蔵量推移
中東の石油の確認埋蔵量推移

アフリカ

アフリカの石油の確認埋蔵量推移
アフリカの石油の確認埋蔵量推移

アジア大洋州

 アジア大洋州で最大の産油国は中国であるが,その歴史は60年と浅い.1959年,満州で大油田が発見され,大慶油田と名付けられた.1980年代には国内産の石油で国内の需要が満たせるようになり,余剰生産分を日本に輸出もしていた.しかし経済成長に伴い,石油の国内需要が増加し始め,1993年から中国は石油の純輸入国となった.

 2000年代,中国でピークオイルに対する懸念が高まった.限られた石油生産を巡って米国との間に熾烈な争奪戦が起きるのではないかという不安を中国政府は抱いていた.

 現在の中国の産油量は日量380万バレルで世界で8番目に多い.しかし国内の石油需要はそれを遥かに上回っている.現在中国は世界最大の石油輸入国であり,輸入量は世界の総需要の75%を占める.

 懸念は石油がどれだけ生産されるかだけではなく,どこを通るかにもあった.南シナ海は石油輸入の幹線道路であり,南シナ海へ出る前にマラッカ海峡を通過してくる.2003年末,胡錦濤はマラッカ海峡に依存するリスクをマラッカジレンマと呼んで警戒した.つまり,どこかの軍事力によって中国の石油輸入ルートを遮断されるおそれがあるというものであり,どこかの軍事力とは米国をおいて他にはない.その引き金になるのは台湾が独立の動きを見せたときである.その際には中国は軍事行動を起こすと明言しており,米国が対抗措置として南シナ海の中国の石油ルートを断つ.その後は制御不能の事態に陥ってしまう…中国のストラテジストはこのようなシナリオを念頭に置いている.

アジア大洋州の石油の確認埋蔵量推移
アジア大洋州の石油の確認埋蔵量推移

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