親という呪い

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 職場の新人の女の子と会話する機会があった.職場は県内 2 番目の中核都市で,彼女は近隣の市にある自宅から通勤していた.

 「君,いつもすみませんって言うね.俺,何か悪いことしたっけ?」

 「いえ・・・」一瞬混乱して続ける.「すみません」

 「ほら,また謝ったww」

 「あ,ほんとだ.すみません」

 「ほら,またwww」

 彼女はどこか影のある雰囲気で,軽いノリが通じないところがあった.心に壁を作っているとでも言おうか,何か問題を抱えていそうだった.こじらせるとメンヘラになりそうなタイプ.今回はうまくオープンしたようだ.実家暮らしで三世代同居,最近やっと爺さん婆さんを老人ホームに入れたところなのだというところまでは分かった.

 「年寄りと同居していると大変じゃない?金とか」

 「もう大変ですよ.お金かかって仕方ないんです」

 「もしかして,家にお金入れてるとか?」

 図星だったようだ.奨学金返済と併せて月に 10 万円以上給料から差し引かれていることも分かった.

 「同居してるといつまでも自立できないよ.こっちに引っ越したら?」

 「そんな訳には行かないんです.色々あって」

 その色々,はあまり話したがらないように見えた.

 「親孝行ってのは美談に思われてるけど,実は巧妙に隠蔽された洗脳なんだよ」

 こちらをじっと見つめる.

 「何か刺さるものがあったってことは,何か自分でも引っかかっているってことだよ」

 ここは一気に攻め込むところ.

 「このままでは君は一生,親の財布として生きていくことになる.それでいいの?そんな人生,後で後悔してもその時にはもう手遅れなんだよ」

 何とか否定したがっているように見えた.

 「君はそのもやもやした何かには既に気が付いている.でもそれを直視したくない自分もいる.だけどね,いつかはそれに向き合わないといけない」

 「いいんです,大丈夫です」

 彼女は否定した.多分,自分の中にある不安を明確に言語化されたことを恐れているのだろう.これまで刷り込まれてきた忠孝という儒教的価値観と個人主義とがせめぎ合っているはずだ.

 親子では経済的利害が対立する.特に貧しい家では尚更だ.一般には親が子から搾取する.子はこれまで親孝行という価値観が刷り込まれており,最初は何の疑いも持たない.しかしどこかの時点で気がつく.これ,何かおかしいぞと.

 経済的搾取でなくても,親と同居を続けるということは,将来親の老後の世話を同意したのと同じことだ.

 幸運な例外もあるだろう.親が裕福で子供から金をむしらなくても良い家庭,特養や老健で世話してもらえばよい場合など.しかし大半の家庭はそれほど裕福ではない.金さえあればこういった親子間の葛藤は避けられるはずなのだが,世の中そううまく行かない.

 親子間でのカネの流れを整理してみよう.

 子が就職するまでの間は親から子への流れは変わらない.問題は子が就職してからだ.上流家庭,中流家庭,下流家庭のどこでカネの流れが逆転するか.おそらく中流と下流の間だ.上流では引き続き親から子への流れは減るだろうが変わりはない.中流では差し引きゼロに近いだろう.下流では逆に子から親へとカネの流れが逆転している.これでは富の蓄積は無理だ.子もまた自分の子から搾取せざるを得ない.

 儒教的価値観ではこれを親孝行と呼んで下流家庭の不満を逸してきた.徳川幕府による統治体制にとって儒教が好都合であったことは間違いなく,その思想は現代に至るまで脈々と受け継がれている.だが,孝経など原典を紐解くと子供が親の犠牲になる等というのは本義ではないと分かる.貧困と政治体制が儒教を変質させたのは間違いないだろう.

 キリスト教の母体であるユダヤ教ではどうか.有名な十戒では「あなたの父と母とを敬え」とある.キリスト教も旧約聖書を聖典としており,当然に十戒も教義に含まれる.江戸時代以降の日本での儒教と違うところは,親への敬意は神への信仰よりも下位に位置づけられていることだ.親が神の教えに反していたら親に従わなくても良いってこと.ここが日本とは事情が異なる.日本での儒教とは親・お上に絶対服従だからね.ここから個人主義が発展する余地が生まれた.

 個人主義という言葉は定義が曖昧だけど,人間の尊厳と自己決定という概念は共通している.良くも悪くも,キリスト教がなければこの概念は生まれなかった.現代の日本においては江戸時代以来続いていた儒教的価値観と個人主義が拮抗している.学校教育においては未だに道徳という科目が教えられており,子供は江戸時代からの儒教的価値観を刷り込まれて育つ.

 しかし成長の過程や社会に出てから個人主義に触れ,これまでの価値観に疑問を抱くようになる.疑問を抱かないやつはある意味古い価値観の中で幸せなのかもしれないけど.この段階になると子供の頃から刷り込まれてきた価値観は呪いとなって降りかかる.ここで葛藤して自分なりの価値観を再定義することになる.

 イスラム教はよく知らないので勘弁してくれ.

 風呂敷を広げ過ぎた.話を戻そう.

 個人的な話になるが,俺はこの葛藤の結果,親を絶縁することにした.不幸な例だと思うが,そうする他なかった.もちろん民法上は親子は絶縁できないことになっている.だからすべての連絡を絶ち,引越し先の住所は当然知らせず,親戚付き合いも全てやめた.だが,誰も何も言ってこなかった.後は何かあるとすれば,親が死んだ時だけだろう.その時は何か言われるだろうが,別に命を取られるわけではない.放っておけば良い.

 子から親へのカネの流れを逆転させ,子へ富を蓄積させるのが親の責務だと思う.それができないから苦しんでる家庭もあるのは十分承知しているが,自分たちの味わってきた苦労を子供にさせたくないというのは,古今東西を問わず親の共通の感情ではないだろうか?

 彼女はまだ儒教的価値観を捨てきれていない.しかし何か疑問を感じている.俺がそれを言語化してみせた.何か考えるきっかけになってくれればと願う.

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